古代

 記録に残っている日本で最も古いカラクリは中国から製法が伝わってきた指南車のようです。指南車とは、車上に置いた人形(仙人の場合が多い)が常に南を指す装置で、磁石を利用するのではなく歯車を利用して車が転回した角度分だけ指南人形が反対に回るような機構になっています。『日本書紀』巻26の658年(斉明天皇4年)の条に「沙門智踰、指南車を造る」、巻27の666年(天智天皇5年)の条に「倭漢沙門智由、指南車を献る」と記録されています。

 次ぎに登場するカラクリは、これも中国から製法が伝わってきた漏剋(漏刻)という水時計です。これも『日本書紀』巻27の671年(天智天皇10年)の条に「漏剋を新しき台に置く。始めて刻時を打つ。鐘鼓を打つ。始めて漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の、皇太子に為す時に、始めて親ら製造れる所なり。」とあって、天智天皇が中大兄皇子といっていた頃に作り始めたことがわかります。漏剋(漏刻)とは上の貯水槽(漏壺)の水を管かサイフォンで下の受水槽(箭壺)に導き、受水槽の水面に浮かべて立てた目盛棒(刻箭)の目盛を読んで時間を知る装置です。ただし、受水槽に入る水の流量を一定に保つために3〜4個の貯水槽を備えていました。

 あと古いものでは、東大寺正倉院御物となっている様々な遊戯具です。とくにカラクリ仕掛けの碁盤が有名で、両側に碁石を入れておく引き出しがあり、一方を引くと他方も自動的に出るような仕掛けになっています。

 平安時代に入ると、『今昔物語集』巻24に次のような説話が残っています。時代は9世紀半ば頃です。
「高陽親王(かやのみこ)と申す人御(おはし)けり……極たる物の上手の細工になむ有ける。京極寺と云ふ寺有り。其寺は此親王の起(たて)給へる寺也。其寺の前の河原に有る田は此寺の領也。而るに、天下旱魃しける年、万の所の田皆焼失(やけうせ)…‥苗も皆赤みぬべし……高陽親王此を構給ける様、長(た)け四尺計なる童の左右の手に器を捧て立てる形を造て、此田の中に立て、人其童の持たる器に水を入るれば、盛受ては即ち顔に流懸る構を造たりければ、此を見る人……興じて聞継つつ、京中の人市を成して集て、水を器に入れて、見興じののしる事無限し。如此為る間に、其水自然(おのずか)らたまりて、田に水多く満……其田露不焼(つゆやけず)してなむ止にける。」

中世

室町時代になると貴族や宮中の日記などにアヤツリ・カラクリの記録がいくつか見られます。

応永28年(1421年)「人形喝食金打あやつりて金を打ち舞」(『看聞日記』)
「喝食」とは、広辞苑には「禅家で、大衆誦経の後大衆に食事を大声で報ずる役僧。後、有髪の侍童の称」とあります。一体、どういう人形だったのでしょう?

永享4年(1432年)「自内裏アヤツリ燈爐一被下。一谷合戦鵯越馬下風情也。殊勝アヤツリ言語道断驚目了。……自南都進奈良細工」(『看聞日記』)
あやつり仕掛けをもった一ノ谷の合戦(鵯越え)を題材にしたカラクリ燈爐(とうろう)のようです。そして、このカラクリは南都(奈良)から献上されています。

永享9年(1437年)「自内裏亀破子-蓬莱山鶴亀アヤツテハタラク-宮御方へ被進」(『看聞日記』)
「蓬莱山」とは、広辞苑には「シナの仮想上の山。東海中にあって仙人が住み、不老不死の地と考えられる霊山」とあります。蓬莱山を舞台に鶴と亀がアヤツリで動く台付きカラクリの一種だと思われます。

文明6年(1474年)「御燈篭女中進上アリ、鶯アハスル所也、此鶯鳴也、近比耳ヲオトロカス也」(『言国卿記』)
鳴き声をだす鶯の仕掛けがほどこされた燈篭で、これは音を出すカラクリ仕掛けです。

天正10年(1582年)「従学侶サイシキノアヤツリ張良、三尺五寸ノ台」(『多聞院日記』)
これは台付きのカラクリです。「学侶」とは学問する僧侶、出典の『多聞院日記』は奈良興福寺多聞院の日記。そして先ほどの永享4年の『看聞日記』のカラクリ燈爐は南都(奈良)から献上されています。どうも奈良法師(興福寺の僧兵)はカラクリ技術に深い関わりをもっていたのではないでしょうか?

近世

豊臣秀吉の時代、慶長3年(1598年)の記事として、「女御よりはうかのあやつり物まいらせらるる」というくだりが『御湯殿上日記』にあります。儒者江村専斎の雑談を集めた 『老人雑話』ではこの人形のことを次のように述べています。
「秀頼五歳の時、(京)参内有り。伏見より行列をなす。……銭を箱へ入なれば、はわる(転倒する)人形を輿の先に持たす。」
豊臣秀吉・秀頼が京に参内したとき、女御からこの人形をもらって帰ったようです。

近世のカラクリ技術に大きな影響を与えたのが、時計の伝来です。機械時計は、天文20年(1551年)にフランシスコ・ザビエルが中国地方の戦国大名大内義隆に献上したものが最初であるといわれています。また、このころ伝わった時計で現存最古のものは、久能山東照宮博物館に所蔵されている徳川家康愛用の時計です。この時計は、慶長17年(1612年)にノビスパンから家康に献上されたものです。このように、近世初期には多くの機械時計が日本にもたらされました。そして機械時計のメカニズム(ゼンマイ・歯車・調速機[棒天符・冠脱進機])が日本のカラクリ技術に大きな影響を与えました。

寛永8年(1631年)に亡くなった江戸初期の京都の名妓吉野大夫は蟹の盃台を愛用していました。滝沢馬琴は、後年京都に旅行したときに吉野太夫の夫となった灰屋紹益の孫から、蟹の盃台の実物を見せてもらい、『著作堂一夕話』という書物に次のように記録しています。
「中山の色紙、よしの河の裂、蟹の盃は、よし野、廓にありしとき、愛玩せしところなり。今家に存するもの蟹の盃のみ。予主人に請て一覧